飲み屋で熱く語る ”野球好きオヤジ” の勝手な独り言

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野球選手超人伝説

野球選手に限らず頂点を極めるような人々には逸話や考えられないような言い伝えが存在する。
信じられないような内容やまあ誇張されているだろうなとは思うものの、マンガのヒーローを見るように楽しく伝説なってしまうものである。
今回はこと野球に関しての超人的は話を雑誌やネットで拾ってみた。
記録が比べられるような水泳や陸上などのスポーツでは、科学的な研究や練習法の進化などにより、時代が新しくなるほど記録は伸びている。また相撲などでも体力の向上などにより大昔の力士より最近の力士の方が強いであろうという意見が多い。
おそらくは、他の競技同様に平均的には現代の選手の方が秀でている確率が高いと推察される。
しかし、野球にかぎらず昔の記録は正確に残っておらず (たとえばスピードガンなど)、伝聞によりさらに尾ひれがついたりして誇張されていくので、昔の選手の方がおもしろい超人的エピソードが残っているようである。
そもそも、記録もないのに 『沢村栄治と大谷翔平のどちらが速いか』 や、『江夏の球をイチローは打てるのか』 などという議論は面白くはあるが、結論が出るわけはない。
対戦した打者の感じ方としても[尾崎行男はすごかった」、などといわれても[そうでしょうね」、と相槌をうつくらいなものである。
そんなことよりも、ものすごかった超人たちを 『これだけすごかった』 『こっちはこんな話が残っている』 などといいながら、大いに騒ぎビール重ねる方が、断然楽しく、夢があるのに相違ないのである。
以下、真偽のほどは全く保証しないが、是非ビールを片手にお楽しみください。
(参考資料は 伝説のプレーヤー http://1st.geocities.jp/dogyamanet/index.html  古今東西「ベースボール伝説」ベースボール・マガジン社  その他より、一部抜粋して記載)
 
【古今東西 打者編】
榎本 喜八 「安打製造機」
◇ ある試合で榎本は4打数4安打と打ちまくったのだが、鮮やかな当たりのヒットは1本もなかった。榎本は「今日は4の0か」とつぶやいて落ち込んでいたという。
 野村克也の回想より
榎本は私が見た中で、一番巧い左打者である。榎本はまずボールを振らない。唯一振るところは内角高め、 それもよほど「速い」球でないと「フン」といって見逃されてしまう。 ある時その内角高めに球が来た。 コースはボールだったが、審判が「ストライク」と言ったので 私は「しめた」と思った矢先、榎本はこう言ったのである。 「今のは3センチずれているよ」 そう言うと何もなかったようにまた構えた
 
中西 太
◇ ファウルチップしたら、ピッチャーの所までボールの皮が焦げる臭いがした
◇ ファールチップがネット裏の席にキナ臭いにおいを漂わせた
 ショートライナーと思った選手がジャンプしてグローブの先をかすめた球が外野スタンドに飛び込んだ
 折れたバットでホームランを打った
 怪我をしていたため結果として左手 1 本でホームランを打った
◇ 中西のライナー性の打球を捕球した野手が、手を骨折した。
◇ 1953年8月29日、対大映戦(平和台野球場)で林義一投手から放った打球はライナーでバックスクリーンを優々と越え、場外の福岡城址まで届いた。推定飛距離は160m以上で、180〜190m近く飛んだ可能性もあると言われている。この時も、林義一投手は「(取れるライナーかと思って)ジャンプした。そうしたらグングン伸びて、バックスクリーンのはるか上を越えていった」と千葉茂に後年語っていたと言う。ただ打った中西本人は、あまりにも低い弾道だった為、本塁打になるとは思わず、一塁を回るあたりまでは全力疾走をしていたといい、またそれほどの飛距離の本塁打になるとも思っていなかったという。
◇ 投手の肩口を抜けたライナーが伸びに伸びて平和台のバックスクリーンを超えていった(青田昇の証言より。このとき青田はセンター前ヒットと思って一歩前に出たという)。
 
前田智徳
 オープン戦で一回もバットを振らずに三球三振をしてベンチで「あんなんプロの投げる球じゃない」といったらしい。
 理想の打球はと聞かれ「ファールならあります。」と答えた。
 
王 貞治
 1975年6月17日の大洋戦で王は、打席に立って構えたとき、違和感を覚えた。場所は、川崎球場である。試合後、王は思い切って審判団に頼んだ。「バッターボックスからマウンドのプレートまでの距離を測ってほしい」と。審判団も大打者の王が言うだけに無視できず、実際に測ってみると、何とバッターボックスがバックネット側に25センチ延びていたのである。しかし、このことに気づいたのは王ただ一人だったのである。
 
長嶋茂雄
1960年、開幕の国鉄戦の5回捕手の平岩は立ちあがり、打者の頭の高さに構え1球外すことを指示した。投手の村田は、捕手が構えた位置に投げたが、長嶋は強引にバットを振り、左翼席中段への本塁打とした。
 同年7月16日、長嶋は、投手が敬遠で投げた球を無理やり打ちに行ってツーベースヒットにしている。
 さらに翌日、大洋戦で鈴木のこれまた頭の高さに投げた外し球を振ってレフトへ飛んだ。長嶋が打って来ると思わなかったレフトは慌てて打球を追い、転倒して頭を強打。その間に長嶋は一気にホームまで走りきり、ランニングホームランとしている。
◇ 1968年5月11日の中日戦、敬遠してきた山中巽投手に対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出たのだ。絶対打つことができない長嶋を、あろうことか山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせたのである。
 
川上哲治
 1951年3月31日練習後、川上は「ボールが止まって見えた」とつぶやいたという
 本塁打はどうやったら打てるか、という質問に対して「ボールを3分割して、下から1/3の点を強打すれば、本塁打の確率が増える」と答えたと言われている。
 
大下弘
 名将・三原脩さんは、こんな言葉を遺している。
    「日本の野球の打撃人を五人あげるとすれば、川上、大下、中西、長嶋、王」
    「三人にしぼるとすれば、大下、中西、長嶋」
    「そして、たった一人選ぶとすれば、大下弘」
 
藤村 富美男
 1956年6月24日、甲子園で阪神×広島戦が行われた。試合は0-1と阪神がリードを許したまま9回裏に入り、最後の攻撃で2死満塁のチャンスをつかんだ。藤村は、監督として三塁コーチボックスに入っていた。そのとき、藤村は、一塁コーチボックスの金田に促され、自ら 「代打、俺」と告げたという。そして、リリーフとしてマウンドに上がっていた長谷川良平投手から放った打球は歓声とともにレフトスタンドへ。監督兼任で代打逆転満塁サヨナラ本塁打。これが藤村の現役最後の本塁打となった。
 
ョッシュ・ギブソン
 ベーブ・ルースを「白いギブソン」と呼ばせたジョッシュ・ギブソン
 生涯ホームラン記録は 962本。
 ピッツバーグでのある試合で、ギブソンが放った打球が球場の外に消え、その打球が翌日フィラデルフィアの球場に落ちてきた
 1934年にはヤンキースタジアムで飛距離580フィート(約176メートル)の場外本塁打を放ったと言われている。
 ペンシルヴェニア州で試合をしていたとき、痛烈なショートライナーを放ち、遊撃手ウィリー・ウェールズはグラブを弾き飛ばされ、親指と人差し指の間の肉が裂けてしまったという。
 
クール・パパ・ベル
◇ ダイヤモンドをわずか12秒で1周したのが計測された
 タッチアップで2塁から生還した
 犠牲バントで一塁から一気に三塁へ進むなど、一度に2つの塁を奪ったことが何度もあるという。さらに、一塁走者であったとき、犠牲バントで一挙本塁を陥れたことがある。
 ニグロリーグでは200試合足らずで175の盗塁を記録した。
 強烈なピッチャーライナーがサチェル・ページを襲ったときのこと。「球は俺の耳元をかすめて飛んで行った。体勢を立て直して後ろを向くと、なんとその打球が、二塁に滑り込んだベルの尻に当たっているじゃないか」
◇ ジョッシュ・ギブソンがホテルで同室に宿泊していたとき、ベルは壁のスウィッチを切ったかと思うと、電燈が消えるよりも早にベッドに滑り込んでいた。
 
テッド・ウイリアムズ
 回転しているレコード盤の印刷した文字が読めたとか、遠くから来る車のナンバー・プレートを誰よりも先に読めたとか。
 
ベーブ・ルース
 プレーヤーにかけられ回っている、78回転のレコードのタイトルを読めるほどの優れた動体視力の持ち主であった
 1926年のワールドシリーズでは、ルースは病の床にあった11歳の少年にホームランを打つことを約束し、実際に打っている。
 タイ・カッブのヒット狙いの打法に対し、ルースは「あんたみたいな打ち方なら、俺なら6割はいけるだろうな。でも、客は俺のけちなシングルヒットじゃなくて、ホームランを見に来ているのさ」とコメントしたという。
 
【古今東西 投手編】
 
尾崎行男
 尾崎がプロ入りした1962年、山内一弘は、大毎の看板打者として活躍していた シーズン前、尾崎についてのコメントを求められた山内は「たいしたことないよ」と発言する。 記事を読んだ尾崎は、怪童のプライドを賭けて、山内に剛速球1本で勝負することを決めたという。 対戦は、尾崎のデビュー戦にやってきた。  そして、この日、対戦した山内は、試合後ネット裏の通路でパンチョ伊藤(当時パ・リーグ事務局長)とすれ違ったとき「ボールが途中で消えたんだよ」という言葉を残して素直に脱帽している。
 
稲尾和久
キャンプ中熊本大学の医学部によって西鉄ライオンズの主力投手5人の制球力調査が行われた。これは捕手が内角高め、低め、外角高め、低めに構えそれぞれに10球ずつ投げるというものであった。稲尾は合計40球をすべて捕手が構えるミットンに寸分の狂いもなく投げ込み、他の4投手は声も出なかったという。
 
江川 卓(高校時代)
 甲子園大会での対戦相手の打者「高目には手を出すなって言われたけど三球三振ですわ。高目やない。まん中なんです。それをキャッチーは全部頭の上でキャッチしてる全部ボールがホップして来よるんですわ」
 対戦相手の監督「選手にバットを短く持って当てていくように指示したが、どうしても打てなかった。もう1度対戦しても打てませんね」「選手には内緒ですが、完全試合にならなくてホッとしましたよ」
 
金田正一
オールスターゲームの時に、練習の虫と言われていた阪神の村山実が金田のトレーニングに付き合おうとしたが、あまりのハードな内容に音を上げたという逸話がある。
 ロッテ監督時代の教え子である村田兆治によると「実績のあるピッチャーは投球練習をしなくてもいいから、とにかく走れ」と指導していたという。
 恐るべしは完全試合達成時である。9回、相手の中日が1アウトから、ハーフスイングをめぐって40分の抗議。肩も冷えてもうだめだろうと思われたそのとき「さあ、後二人や。必ず三振させてやるから、みんな帰り支度しといてや」と言い放ったそうである
 4回まで投げていたピッチャーがピンチに陥ると突如マウンドに向かい「ワシ投げるから」と勝手に投手交代宣言。まんまと勝利投手となってしまったのである
 
山口高志
 170センチという小さな体を最大限に使って投げ込む高めのストレートは「三日前から振らないと打てない」とまで形容されたという。
 常時、150キロ以上の球を投げ、好調時には160キロ近い球を投げていたと言われている。山口の剛速球を目の当たりにした人々の中には「日本のプロ野球史上、最も速い球を投げていた」と断言する者は多い。
 
杉下 茂
 数々の名勝負を繰り広げた川上哲治には、故意にフォークの握りを見せてから投げたという。
 全盛期のフォークは45センチ以上落ちたと言われ、捕手も捕れない球があった。
 川上は「捕手が捕れないのに打てるわけがない」と嘆いたという伝説も残っている。
 
沢村栄治
 快投を続ける沢村に注目したのが、大リーグのピッツバーグ・パイレーツのスカウトだった。そのスカウトは、ファンとしてサインをもらいたいふりをして沢村に大リーグの契約書を差し出したのである。しかし、それが大リーグの契約書であることに気づいた同行の鈴木惣太郎は、沢村にサインを拒否させたと言われている。
 
サチェル・ペイジ
 ニグロリーグ時代には約2500試合に登板、2000勝以上をあげ、うち完封勝利は350以上、ノーヒットノーラン55試合
 上手、横手、下手どこからでも投げ分けることが出来、投球練習の際、ホームベース上に置いた煙草の箱の上をボールが通過するほどコントロールに優れていた。
 球速の計測記録は残っていないが、160km/hを投げていた速球王ボブ・フェラー同じチームでプレーが42 歳のペイジが投げる球をみて「サチェルの投げるボールがファストボールなら、俺の投げるボールはチェンジ・アップだよ」と発言している。
 サチェルとノーラン・ライアン両者の球を受けた捕手は「ライアンのは時速 100 マイル(161km)だが、ペイジのそれは時速 111 マイル(179km)だ」と言ったという話がある
 全打者三振になりそうな試合で、最後の打者が振り逃げで28連続三振になった
 9回裏にわざと走者をためて無死満塁にし、しかも野手を全員ベンチへ引き上げさせて打者に勝負を挑んだなどの逸話がある。
 9人連続三振をとると宣言して、外野手全員を内野に集めた
 
ボブフェラー「火の玉投手」
 MLBコミッショナー事務局が彼の速球を撮影して球速を割り出したところ、104マイルと計測されたという。ちなみにフェラーはこのときスーツ姿、マウンドでなく平地で投げていた。
 更に1946年のグリフィス・スタジアムで、米軍が協力しての当時最新の球速測定機を使った実験では、初速117.2マイル、終速98.6マイル、平均で時速107.9マイルを記録したという。
 1997年のワールドシリーズでロブ・ネンが104マイルを計時した時、フェラーは「それは俺のチェンジアップの数字だ」とコメントした。
 
ウォルター・ジョンソン
 サイ・ヤング(511勝)に次ぐ417勝(20世紀以降にデビューした投手としては最多)と、通算110完封をマーク
 2ストライクに追い込まれた打者が、「もう結果はわかっている」と、3球目を待たずしてベンチに下がったという伝説が残されている。
 
サンディー・コーファックス「黄金の左腕」
 高校時代にある試合で登板した際、そのあまりのスピードに目を奪われた球審がストライク・ボールを見極めるのを明らかに忘れていたのに「ストライク!」とコールした。これに相手チームの打者が抗議すると、審判は「確かにオレはストライクゾーンを通過したか確かめられなかったが、あんなすさまじい音でミットに飛び込んだ速球は見たことがないし、そんな球をお前が打てるわけがないからストライクだ!」と開き直ったという。
 
ノーラン・ライアン
 ア・リーグ審判のロン・ルチアーノが、「もし水流が流れ落ちる洗車機の向こう側にライアンがボールを投げたとしても、その球には一滴の水滴もつかないはずだ」の名言を残している。
 
以上。
痛快! 痛快!
楽しく2次会にご突入ください。 

 

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2013-09-28 : 酒の肴にもってこいの野球話 : トラックバック : 0
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